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育児休業ふりかえり(5):待つこと
育児休暇をとって良かったと思うことのひとつは、子どもが何かをするときに待つ時間があるということだ。着替えをするにも食事をするにも時間はかかるし、2歳を過ぎたあたりからはなにか尋ねれば「イヤイヤ」とまず言うようになったので、何をするにも予定より必ずといって良いほど時間がかかるのだが、それで困ることもさほどない。
見た目か話し方の問題なのか、どちらかというとそう思われないことが多いようだが、自分では相当なせっかちなほうではないかと思う。常にカイロス時間がクロノス時間を追い越していくようなところがある。今見ている光景に5分先のそれが重なっているような感覚に囚われることがよくあるし、SF映画のように首の付け根にデータ転送用のジャックをつけてほしい(自分だけでなく、関わるするすべての人間に)と思ったことは何度かしれない。現実の時間感覚に苛立たなくなったのはある程度大人になってからである。
子どものころの反動というわけでもないだろうが、いま子どもと一緒にすごしていて待ちきれないということはほぼまったくない。「こういうものだ」と思えばまるで気にならなくなるという性分の問題かもしれないし、これこそ親バカというものかもしれない。どんなにかわいいと言っても子どもと過ごしていてイライラすることがあるというような話は時折耳にしていたので、自分でも意外な気はしている。職場復帰して子どもを保育所に預けるようになってからも、朝は僕が送り出しているので、いわゆる時間との戦い?ではあるものの、根気強く子どもを諭したりすることが苦にならない。根気の問題でいえば、子どものほうが音を上げるということがまだ多いだけということもあるだろう。先日も朝「ホイクショ、イカナイ」と言い出して靴を履かないので、玄関先で延々と話し合っていたら(片言の言葉しか解さない子どもとの話し合いというものが、話し合いの体をなしているのかどうかという問題はあるが)、最終的には子どもの方が折れて「ホイクショ、イク」と言った。
だから、待つ時間があるというのは、僕自身の問題というよりも、僕が待たせることになるであろう他者がいないということであったといえるだろう。服を着ないと言って家中で追いかけっこをしていても、30分もすれば着てくれるものだ。頭の固い大人を説得することに比べたら造作もないことには違いない。だいたい、打ち合わせの予定がさほどなければ待たせる相手は少なくなって当然だし、どんな約束も「子どものことがあるので急な変更はあるかもしれませんが良いですか?」と聞いてからだったので、子どもを待つことが他の何かを圧迫する事態があまりないのだった。
だが、他方で常に子どものペースに沿っていたかというと、そうでもないように思う。自分の都合で(子連れにしては)だいぶ活発に動いていた。講義や会議の場にも連れて行き、おおよそ家に籠もりがちということはなかった。以前にも書いた通り、子どものために無理をしているという意識そのものが子どもに伝わる方が何か良くないように思っているので、あくまで自分で納得ができる範囲でのことしかできていないとも言える。子どもの時代から、相手が無理をしているということを無意識・意識的に押しつけてくる感じや、そもそも感情を露骨に表されることに強い抵抗があった。大人になった今も、子どもを感情的に叱ったりしている人を見ると不愉快に思う。嫌悪感や怒りを表現することで教育的な効果があるという考え方や手法にどうしても馴染めないので、自分にできるのはせいぜいここまでなのだろう。よって、子どもがやることはできるだけ待つという方針が実際教育上好ましいものかどうか今のところよくわかってはいない。もしかしたら保育所のような集団生活には馴染みにくい育て方をしているのかもしれないとも思っている。いずれにせよ子どもは自分自身の時間感覚を身につけていくだろう。
あの光景に音楽はついていたか?[記録]:レスポンス(2)
- 2012-04-18 (水)
- essay | あの光景に音楽はついていたか?
あの光景に音楽はついていたか?――ドキュメンタリーにおけるランドスケープとサウンドスケープ
第2夜:レスポンス(2) ケイト・マクイストン *ビデオによる参加
惨事と私たちの間にあるもの、追憶としての音楽
——惨事を媒介するメディアと音楽の役割
みなさんこんにちは。今日は現在私の住んでいる、ハワイという特殊な地理条件から、大惨事を報道するニュースやメディアの表現についてお話ができることを大変光栄に思います。2001年9月11日、私はニューヨークに住んでいました。貿易センターの約8km北に位置する大学院に在籍していて、きょうそちらにいる三浦寛也や、他何人かの友人たちと1日ラジオにかじりつき、それでも状況がつかめないまま、あてもなく散歩をしたことを思い出します。昨年日本での震災があった日、私はすでにハワイに引っ越していました。ハワイという土地柄なのでしょうか、ここ地元の人々の生活はことさら天候に左右されているようです。ニューヨーカーは、世間話の種によく政治の話を持ち出しますが、ここハワイでは、いつも人々は天候の話ーー特に波の話をよくします。ハワイは隔絶された場所であるにも関わらず、 特に東洋と西洋が重なる接点として人が集まってくる交流の地、というパラドキシカルな一面も持っています。その人口は実に多様で、マジョリティという概念が成り立たないほどの人種のるつぼです。多民族的な環境は、アロハ・スピリットという言葉に代表されるように、来訪者に優しくフレンドリーなコミュニティの形成に役立っています。今日は大惨事発生後、その惨事の場に居合わせた人にも、遠く離れていた人にも、その過去を真に意味のある記憶として伝えていくための、メモリアルとしてのメディアのあり方について、みなさんに問題提起したいと考えています。
始めに 「Dan Rather Remembers」というドキュメンタリー作品から、真珠湾を訪れた日本人観光客を撮った短い映像をお見せしたいと思います この映像は、昨年真珠湾攻撃70周年にテレビで放映されたものです。冒頭の映像では、アリゾナ戦没者慰霊碑にアメリカ国旗が翻り、観光客を乗せた船がキャメラの前を通過していきます。背景に流れるブラス・バンドの音楽は「偉大なる古き旗よ」という愛国歌で、第一次世界大戦の時に国民の士気を高めるために書かれたもので、考えてみると奇妙な取り合わせとなっています。戦意高揚を狙った曲想に反するかのように、歌詞の中の国旗を映像の中の国旗に重ねあわせ、平和のコンセプトに結びつけようとするわけです。歌詞は「偉大なる古き旗よ 空高くひるがえる旗よ」永久に平和のもとになびけ」という一節に始まります。第一次大戦の曲を背景に流すことで、真珠湾攻撃という、まだそれほど風化していない近年の「記憶」を「歴史」として位置づけしようという意図が見て取れます。これはこの映像に出てくる日本から来た学生たちの態度と呼応しているように見えます。彼らの表情からは犠牲者への敬意と共に、歴史への探究心を読み取ることができ、学生のひとりは「戦争の悲惨さを目の当りにし、言葉を失った。」と語ります。そして学生は全員で折った千羽鶴を慰霊碑に捧げます。番組の最後で東京大学の矢口教授が登場し、「真珠湾を訪れる日本人はきまって、この過ちを繰り返さないように平和の努力を続けなければ、と話すのです。」という談話が編集され、音楽なしで画面は暗転します。つまり、視聴者に彼の言葉の意味と、ここで流れた映像を理解してもらうための意図的な沈黙と時間の演出をしているわけです。
私は、この小ドキュメンタリーから、私達が悲劇的惨事を理解するために、このようなニュース映像が果たす役割の大きさについて考えさせられました。ここで真珠湾を訪れた学生たちは、戦後何十年もしてから生まれた世代ですが、慰霊碑と、真珠湾博物館のマルチメディア展示は、彼らに大きなインパクトを与えたようです。
しかし戦争がもたらす悲劇に、ほとんどの場合、加害者と被害者という役割が成り立つのに対し、自然災害や惨事を理解するのに、同じ図式をあてはめることはできません。地震や台風、津波が去った後、私たちはどのようなメッセージを読み取ることができるのでしょう?私は、メモリアルとは災害によってもたらされた悲劇の答えを見出すための疑問符として、その第一歩を踏み出すことであり、個人がその悲劇的な経験と対峙する場を作ることだと考えます。ハワイで流れた日本の地震と津波の動画と写真映像は、その混乱の様子をリアルに伝え、衝撃的でした。日本から送られてくるこのような映像を前に、私たちは当惑を覚えました。なぜならば、9.11の報道時には存在した周りの高層ビルのような定点的視点がないだけに、その被害のスケールを推し量ることが難しかったのです。見えている火事の炎の大きさは?水に写っている影は?と考えながら、写真の1枚1枚に目を這わせていくと、建物のひとつひとつが屑になって山積みになっているのが見え、まるでそれらは巨大なほうきで一掃されたかのようでした。ハワイの人口の12.6%が日系ということもあり、津波のニュースに対して日本にいる家族や親戚の安否を気にする声がまず上がりましたが、と同時に、遠くから何もできない無力感を多くの人が感じました。それから徐々に日系人に限らず、ハワイ諸島の多くの住民から、組織的に何か手助けをできないだろうか、という声が上がりました。
次のニュースは、地震が起こって間もなく流れたもので、ハワイに滞在中の東海大学の学生と教授に、彼らの思いを聞いたものです。
http://www.hawaiinewsnow.com/story/14300429/tokai-college-shares-japans-pain
震災のあと、何らかの手助けをしようとする人々の思いは、いろいろな援助活動として、短期間に結実していくことになります。震災の3ヶ月後、日本の高校生たちがハワイへ招待され、彼らの校舎が建て直される間、ハワイの地元の学校に編入することになりました。こちらのニュース映像では、その彼らが真珠湾のヒッカム航空演習場を訪れた様子が映されていますが、ハワイからの物資援助を強調する内容になっています。冒頭の震災被害のイメージは、最後に感謝の気持ちと前向きに復興を語る健康的な高校生たちに置き換えられ、悲劇から復興へというシナリオを暗示する映像編集がなされています。
http://www.hawaiinewsnow.com/story/14974346/sendai-students-visit-pearl-harbor
また別の組織は、震災でもっとも被害の大きかった地域の子供達をハワイに招待しました。
このニュースでは、招待した組織のオーガナイザーの談話を写した部分が2度繰り返されていることに気づきます。反復という手法は、ニュース映像でよく使われますが、特に惨事を扱った報道に多く見られます。例えば9.11は、膨大なメディアによって取り上げられる事になるわけですが、こういった惨劇を報道する映像できわだっているのが、この反復を伴う持続という手法、それから音楽や編集を使い、個人の口から語られる記憶を使って過去を変容させるという手法、この2つといえます。惨劇の瞬間を永遠のものとして記憶しようという欲求、更に残された断片的な記録を使って、そのある瞬間を記憶に蘇らせようという2つの欲求がそこには存在しているように思います。
音楽的なメモリアルの試みとして、物質に還元されてしまった犠牲者と建物の灰を聴覚情報としての音に変換することでヴィヴィッドに蘇らせるという、「グラウンド・ゼロの内なる音」というレイフ・ボウマンの作品があります。
http://www.sonicmemorial.org/public/archive.jsp?listlib_offset=5
9.11のメモリアルパヴィリオン内には人工の滝があり、一気に崩れ落ちる建物を想起させる見立てになっていますが、このレイフ・ボウマンの作品と同じく、惨事の現実と遺物が滝という形に変容され、貿易センターの高層ビルが崩れ落ちた瞬間を永劫化しようとしているわけです。こういった9.11メモリアルの試みとして、最もアクセシブルで興味深いものがこのオンラインサウンドメモリアルといえるでしょう。
http://www.sonicmemorial.org/sonic/public/index.html
このサイトには誰でも音源をアップロードすることができ、また他の人が提供した音源を聞くこともできます。このホームページはアートギャラリーのようですが、ユーザーは絵画や美術品を閲覧する代わりに、ここでは様々な音源をクリックしながら自分なりのアンビエントな音空間をデザインすることができます。これらの音源の数々に見られるクリエイティビティからは、メモリアルという言葉の文字通り、 瞬間を記憶として永続させよう(それは文字通りミュージアムという言葉にも表れています)という願望を見て取ることができます。
今回の日本の惨劇において、メモリアルはどのような形を取るのでしょうか?もし建造物という形を取るのならば、どこに作られ、どのような外観を持つべきなのでしょう。そのメモリアルは惨劇の現実を変容させる手法を取るのでしょうか?インターネットのようなバーチャルな形や、インタラクティブな手法をとるのでしょうか?またどのような感情を呼び起こすものになるのでしょうか?こういったことを考えていく時期が、そろそろやってきているのかもしれません。ありがとうございました。
あの光景に音楽はついていたか?——ドキュメンタリーにおけるランドスケープとサウンドスケープ[記録]
- 2012-04-14 (土)
- essay | project | あの光景に音楽はついていたか?
この記録は、2012年2月23日・24日の二晩にわたり、仙台にある Bookcafe 火星の庭でおこなったささやかな勉強会「あの光景に音楽はついていたか?——ドキュメンタリーにおけるランドスケープとサウンドスケープ」での発表と対話を書き起こしたものです。それぞれの記録を順次このページから公開し、最後には日本語・英語による電子書籍形式でも読めるようにする予定です。
私たち__作曲家で現在アメリカの大学で教鞭をとっている三浦寛也と、せんだいメディアテークで学芸員として映像文化を中心とした企画のほかインディペンデントでもさまざまなプロジェクトをしている小川直人の二人__は、それぞれ音楽と映像の専門家であり、仙台に生まれ育った旧友でもあります。遠い距離をおいて暮らす私たちが東日本大震災を契機に語り合っていた延長に、この勉強会はおかれています。
二人きりの会話ではなく、興味を持ってくれる人たちと考える時間をともにしてみたいという思いから、三浦が一時帰国をする機会に、小川が映像文化について講義をしている宮城大学の”非公式な”課外授業と称し、街のなかのカフェを会場としました。それは思いのほか関心をよせていただき、小さな店は両日ともいっぱいになりました。そこで、私たちのふりかえりと、その場でご一緒できなかった方々への報告をかねて、三浦、小川をふくめ4人からの話題提供と、会場に集まった人たちもふくめた対話の記録を残すことにしました。
まず、勉強会の趣旨を説明するために、案内のために書いた短い文章を再掲します。
映像と音がシンクロするのが当然と目される今日でも、不意にそれらが別々の存在であることを意識することはある。たとえば、2011年3月11日をめぐる ニュース映像やドキュメンタリーを見るとき、背景に流れる音楽に途方もない違和感をいだいたことはあるだろう。あるいは、地鳴りがするたびに脳裏に蘇る光景に悩まされている人もいるだろう。
映像は編集(モンタージュ)によって意味を与えられつつも、強烈な真実としての断片をその画面のいたるところに残しているのに比べ、それにともなう音楽/音は、作られ、整えられ、あるいは、消されるなどして、作り手のなすがままにあるように思われる。
人類史もっとも多くの写真と映像をうむことになる、ニューヨーク世界貿易センタービル崩落のイメージと音を、これまで10年間に作られたドキュメンタリー作品からいくつか検証しつつ、2001年9月11日にニューヨークにいた三浦と、2011年3月11日に仙台にいた小川が、「想像を絶する光景」の対岸から見聴きしたメディアについて考える。またレスポンダントとして、認知心理学の研究者である宮城大学の茅原拓朗氏と、映画音楽の研究者であるハワイ大学のケイト・マクイストン氏からもコメントをもらい、視覚イメージと聴覚イメージが、私たちのなかでどのように同期(非同期)され、あの震災を記録し、記憶していく表現として、これから何を生み出しうるのか、その鍵をさぐる対話。
第1夜:
映像と音のモンタージュ理論——エイゼンシュテイン、シェフェール、あるいは、私の意識
話題提供(1)小川直人(映像文化、アートマネジメント/せんだいメディアテーク学芸員) >>
レスポンス(1)茅原拓朗(宮城大学事業構想学部デザイン情報学科教授) >> 準備中
第2夜:
あの光景に音楽はついていたか?——911から311をめぐる映像における音
レスポンス(2)ケイト・マクイストン(ハワイ大学音楽学部助教授) >>
あの光景に音楽はついていたか?[記録]:第1夜 話題提供(2)
- 2012-04-14 (土)
- essay | あの光景に音楽はついていたか?
あの光景に音楽はついていたか?――ドキュメンタリーにおけるランドスケープとサウンドスケープ
第1夜:話題提供(2) 三浦寛也
音と映像の関わりについての歴史的考察から
——地震と18世紀フランスオペラ
映画と音、または音楽について考える前に、まず視覚芸術と音楽が一つの作品として統合された先例をあげながら、先人たちによってどのような考察がなされてきたのか、ということについてお話をしたいと思います。例えば、18世紀のフランスのバロックオペラでは、音とイメージの意図的な演出についていろいろなディスカッションがなされています。と同時に、東日本大震災後、僕は芸術作品の中で地震が題材とされたことはあったかどうかずっと考えていました。まず思い出したのが、ニューヨークに引っ越して初めて見た、バーンスタインのカンディードというミュージカルでした。ヴォルテール原作のカンディードは、今回の震災とほぼ同規模とされている1755年のリスボン大震災がきっかけに構想され、主人公は、作中でリスボンの大地震に遭遇します。リスボンの震災はヴォルテールだけではなく、他のヨーロッパの思想家たちにも大きな影響を及ぼしました。彼らはこれまで信じられてきた、ライプニッツ的な「世界は善である」というオプティミスティックな世界観のなかで「天罰」として位置づけられてきた自然災害と、リスボンの震災の被害の甚大さに折り合いを見つけることができず、思想的な大改革をおこなっていくことになります。乱暴な言い方をすれば、リスボンの大震災はルソーやヴォルテールによる啓蒙主義のきっかけを作ったり、カントは地震の発生そのものを科学的に説明しようとしたりしながら、フランス革命につながる、より合理的な知の体系をつくったといえるかもしれません。バーンスタインはこのヴォルテールの地震描写の場面を、オーケストラのスコアとしては、たった1ページほどでさらっと流してしまっていますが、18世紀のヨーロッパの知識人の間に、このリスボン大地震が大きな影響を落としたことをまずはじめに申し上げておきたいと思います。
その同じ18世紀、フランスの作曲家、ジャン=フィリップ・ラモーは、1735年に「インドの優雅な国々」という、オペラ=バレエを書き上げています。オペラ=バレエというジャンルは、自身がダンサーでもあったルイ14世によって確立され、18世紀のフランスで独自の発展を遂げたジャンルですが、このオペラの第2アントレの、「ペルーのインカ人」という幕中に、大地震の描写を設定しています。
(プロローグ、「寛大なトルコ人」、「ペルーのインカ人」、「花々、ペルシアの祝祭」、そして「新しいアントレ:未開人たち」という五部構成のスライド)
インドと題されているのに、トルコやペルーやペルシアが出てきて、一見無茶苦茶だと思われるかもしれませんが、この頃のヨーロッパ人たちにとって、インドとはヨーロッパでないエキゾティックな国全般を指す言葉でした。このオペラそのものの話に入る前に、オペラが18世紀のフランスでどのような見られ方をしていたか、というお話をしたいと思います。その頃のフランスの貴族階級にとって、オペラを観劇するということは、社交上のたしなみとひとつでした。つまり、作品を鑑賞することよりも劇場に行き、社交界で自分の存在を知ってもらうことがまず重要でした。ここにその頃のヨーロッパ各地のオペラハウスの見取り図がありますが、このパリ・オペラ座の見取り図を見ていただくとわかるように、劇場のボックス席はボックス同士が対面するようにつくられていて、逆に座り位置からステージがたいへん見えにくい構造になっています。立ち上がって、ほとんど背伸びをしなければステージが見えない。また、ボックス席は恋人どうしの逢い引きや、政治的な密談に使われることも稀ではなかったので、ボックスの前にカーテンが引かれることさえありました。つまり、舞台を観客は常に見ていなかったので、作曲家は音楽だけでストーリーの筋が追える工夫をしていました。逆に言えば、音はまずストーリーの意味を伝えるという役割を任されていたため、 筋を理解する妨げになってしまう複雑な音楽は嫌われ、どちらかといえば単純なものが好まれる傾向があったともいえます。つまり、 音楽にいかに映像喚起力を持たせられるかが、作曲家の腕の見せ所で、劇中の物事や出来事と一対一で呼応する音楽を書くことが求められていました。さっき小川君が映画の中で映像がどう編集されていても、そこに音楽が最初から最後までついていれば、なんとか見るに耐え得るものになってしまう、という話をしていましたが、18世紀フランスオペラもそれに共通するところがあると思います。 座席からステージが見えにくいうえ、しかも多くの観客は開幕に遅れて劇場に入り、閉幕前に帰るということがざらで、 見えなくても、持続して耳に勝手に入ってくる音楽の重要度が大きかったわけです。
では、 異国趣味たっぷりの、ラモーの優雅なインドの国々の中に出てくる地震の場面を、ご一緒に見てみましょう。
(優雅なインドの国々 レザール・フロリサン ウィリアム・クリスティ指揮 アンドレイ・セルバン演出)
この「ペルーのインカ人」には登場人物が3人しか出てきません。太陽神のシャーマンであるインカ人のユアスカル。そしてそのユアスカルが密かに思いを寄せるインカのプリンセス、ファニ。しかし、そのファニはスペイン人将校のカルロスとの恋愛関係にあります。最初ユアスカルはファニに向かって、カルロスはヨーロッパから黄金だけを目的にインカへやって来た、自分たちを征服しようとしている野蛮人である、とファニを説得しようとします。しかし、恋をしているファニはカルロスを中傷する言葉に聞く耳を貸しません。そこでユアスカルは魔術を使って地震を起こし、火山を噴火させ、怖れるファニに自分についてくれば死を逃れられるといって、彼女の心を自分に向けさせようとするのですが、またファニに拒まれてしまいます。そこにカルロスがやってきて、この天災は太陽神の天罰ではなく、ユアスカルの仕業だということを暴露し、自分の過ちに気がついたユアスカルは自らその天災の犠牲となり、溶岩の下敷きとなって命を遂げます。
このオペラは、リスボンの大地震以前に書かれたにもかかわらず、カルロスの目を通して「天罰」としての地震という認識に疑問を投げかけ、因果的説明をこころみ、また、当時のヨーロッパから見れば未開人であるはずのユアスカルに、スペイン人のカルロスを物質主義的な野蛮人と言わせてしまう、実に複雑で大胆な役づくりが行われています。音楽的にはユアスカルのパートは跳躍を多く含んだ大変に歌いにくいメロディー、そしてカルロスのパートは滑らかなメロディーという、未開人=文化人という音楽上の一応の性格付けはされているものの、地震の場面での思い切った転調、またこの3人が歌い上げる三重唱の複雑な絡みなどを考えると、なかなか一筋縄ではいかない、それまでの伝統的なオペラ=バレエから一線を画した作品になっているように思えます。さらに、付け足しのようではありますが、地震をエキゾティックな異国の地で起こる災害と位置づけることで、地震のような自然災害はヨーロッパの中心では起こらないから(ポルトガルというイベリア半島の先端にある国も、ヨーロッパの中心からはかなり離れています)自分たちに直接関わりがない、という現代にもつながるヨーロッパの白人中心の世界観もそこに見て取れるかもしれません。
ラモーはこのオペラを書いてまもなく、啓蒙主義の思想家、そして作曲家を志し、作品もいくつか残しているジャン・ジャック・ルソーとのオペラの美学的なあり方を巡るブフォン論争に巻き込まれていきます。それまでの伝統である、言葉の意味を伝えるために単純な音楽性とメロディーが必要であるとするルソー支持者と、大胆な和声を取り入れ、より複雑な音楽性をオペラに求めるラモー支持者の間での論争は、当時文才もあり、闊達な論者であったルソーのほうに軍配が上がりました。と同時にだんだんラモーのオペラは忘れ去られ、20世紀に至るまで、ラモーのオペラ作品はほとんど演奏されることがありませんでした。
——ノン・リニアに作曲されたラモーの音の空間性
ラモーは、音楽におけるハーモニーを自然倍音に基づいて科学的な説明をした理論家であり、むしろ、20世紀になるまでは理論家としての知名度のほうが高かったといえると思います。ラモー以前のバロック音楽では、ベースラインの上に半ば即興的に演奏されてきた通奏低音のハーモニーを、きちんと楽譜の上に書き込んでいくことをしたのも、ラモーでした。例えばジャン=バティスト・リュリのオペラ「テゼ」の譜面を見てみましょう。このようにラモーの先駆者ともいえる、ルイ14世のお抱え作曲家だったリュリでさえ、ベース上のハーモニーをこのように数字を使いながら、いわば略式で書いています。
それまで時間的な側面でとらえられていたハーモニーの連結や、メロディーとハーモニーの絡み合いなどから、即興性を取り去り、和声をすべて記譜していくことによって、紙の上で空間的に音楽をとらえることを可能にしたラモーの功績は大きいといえます。これは20世紀に、同じくフランスの哲学者ジャック・デリダは、このルソーとラモーのブフォン論争での確執について、グラマトロジーという本の中で言及していますが、話し言葉の延長上としてリニアに存在する書き言葉という考え方に疑問を呈したデリダにとって、瞬発的に即興する行為と、記譜して考察を重ねながらノン・リニアに作曲するという行為を分けたラモーが、実はルソーよりも時代を先取りしていたように思えたのは頷けるところです。
先ほどの自然倍音を使ったラモーの和声理論というのは、周波数を整数倍していくと、このようにオクターブ、完全5度、完全4度、長3度というように、ドミソの和音ができあがり、自然界にその音程の基盤が存在しているというものです。小川君の話に出てきたエイゼンシュテインのオーヴァートーン・モンタージュという、そのオーヴァートンはここから来ていて、彼がドビュッシーやスクリャービンのような高次倍音を使ったハーモニーというのは、この辺の音(自然倍音列の上の方の音を指しながら)のことを指しています。ドの音を基音としたときに、高次倍音であるシやレの音をドミソの上に重ねると、7の和音や9の和音と呼ばれる、ひとつのハーモニーに音が5つも6つも入った複雑なジャズっぽい響きをつくることができ、それは後の19世紀フランスの作曲家であるドビュッシーやラヴェルの作品へとつながっていきます。19世紀の彼らは、ラモーの音楽にその響きを見いだし、自分たちから18世紀に連なるフランス音楽のアイデンティティを確かめるわけです。ここから、ひとつエイゼンシュタインの「映画における第四次元」をクリティークするとすれば、エイゼンシュタインはモンタージュの言語化できる意味に非常にこだわっていて、オーヴァートーン・モンタージュと言いながらも、言語や意味の範疇には収まりきらない複雑な音響の官能的な肌触りには、あまり注意を払っていなかったような気がします。エイゼンシュタインがミッキーマウスを初めて見て興奮した理由も、初期のディズニーの映像と執拗なまでにシンクロした音使いが、ミッキーの一挙一動を、意味として際立たせていたからではないかと思います。意味として還元することにこだわった、どちらかと言えば、ルソー的な音と視覚の関わり方に、エイゼンシュテインは惹かれていたような気がします。
しかし、ラモーの理論を読み、彼のオペラを聴いて思うことは、彼がハーモニーを記譜していったことによって、音をさらに空間的にとらえることを可能にし、後のベートーベンや、ブラームスといった絶対音楽、または先ほどのドビュッシーやラヴェルによる三次元的な複雑な音響を可能にしたといって過言ではないと思います。また音響が豊穣になり、言語化できる意味を超えた音楽を音楽たらしめる要素がラモーのオペラにはあり、逆説的のようにも聞こえますが、あの「ペルーのインカ人」の中での地震描写の映像喚起力を増しているように思えます。
——さらなるノン・リニア編集=ミュジック・コンクレート
と、ここから話は20世紀のフランス音楽に話は移ります。録音技術が発達し、サンプリングしてきた音のみを編集、モンタージュすることによって、ピエール・シェフェールとピエール・アンリという2人のフランスの作曲家が1940年代にミュジック・コンクレート(具体音楽)というコンセプトを打ち出します。実際に現実の世界の音をそのまま音楽作品に持ち込めるようになったことで、彼ら、特にシェフェールは音を聴覚する知覚的なメカニズムに興味を持ち、理論化しようとしています。
(シェフェールのリスニングモードがダイアグラム化されたスライドを映す。)
ここにあるように、幸いにフランス語では聞くという動詞が4つあります。(厳密に言うとそのうち2つは聞くという意味に限るものではありませんが・・・)Ecouter, Ouïr, Entendre, Comprendre の4つです。この4つの動詞を使って、聞くという行為を階層化してシェフェールは説明しています。まず、Ouïrは、単純に音が聞こえてくる、と言う段階。音波が鼓膜をふるわせて入ってきて、思考する以前の段階で聞こうともしないのに、生理的に音を認知してしまう状態。それから耳を傾ける、拝聴する、という意思が表出してから聞く、Ecouter。そして次の段階で、だんだんとその音の内容や、音の形状が理解できてくる段階がEntendre。そして、最後に耳を傾けて、聞き入って、聞いている音を周囲の音、または空間とのコンテクストの中で位置づけすることができる最終段階、これがComprendre。これは社会的に意味を伴った音、例えば救急車の音を聞くこと、について考えて頂ければ分かりやすいかと思います。まずはじめに、救急車の音とも認知されずに何かが聞こえるという状況があり、第2段階目として、救急車の音であるという認識があり、第3段階として、ピーポーピーポーというピーとポーという2つのピッチがあることが認識され、最終段階として、そのすべてを総括し、さらにその音がどこからやってくるのか、他の環境音と比べてどれほど大きいか、小さいか、というコンテクストまで分かる。そういった、言語的な意味をも孕んだ音を積極的にサンプリングしていくことで、音の持つ抽象的な属性(音高、リズム、音色、など)と言語的な意味の間を行ったり来たりしながら作曲ができるのではないか、と考えたのがピエール・シェフェールだったわけです。彼の考えたミュジック・コンクレートは、耳とための映画、シネマ・フォー・イヤーズと呼ばれることもあり、映像と音楽を考える上での重要な指針を与えてくれているように思えます。
今日は、認知科学の専門家の茅原さんもいらしているので、シェフェールが直感的に仮定した、このリスニング・モードに科学的根拠が認められるのか、その辺もお聞きしたいと思っています。
(2012年2月23日 Bookcafe火星の庭にて)
あの光景に音楽はついていたか?[記録]:第1夜 話題提供(1)
- 2012-04-14 (土)
- essay | あの光景に音楽はついていたか?
あの光景に音楽はついていたか?――ドキュメンタリーにおけるランドスケープとサウンドスケープ
第1夜:話題提供(1) 小川直人
——モンタージュとは
『あの光景に音楽はついていたか?』というテーマに近づくための話題提供として、僕からは「モンタージュ/編集」についてお話しします。「モンタージュ」は映画研究者の言葉遣いで、一般的には「編集」というほうがわかりやすいでしょう。 とても基本的なことでありながら、よく考えるといまだによくわからない「モンタージュ」ですが、今日は、モンタージュを映像(ショット)と映像(ショット)のつなぎの問題から、映像と音をふくめた問題として考えてみることで、明日の対話に備えたいと思います。
「モンタージュ」とは、複数の場面の映像(ショット)を組み立てて、それぞれの映像の断片がもっていた意味を羅列しただけとは別の意味(物語、感情、意図)を生み出す技法です。この言葉は、もとは「組み立て」「構成」といった意味で、旧ソ連の映画作家/理論家のセルゲイ・エイゼンシュテイン(1898-1948年)が使い始めたものです。『戦艦ポチョムキン』(1925年)の階段の場面を見たことがある人は多いでしょう。映像理論の教科書で「モンタージュ」というと必ずといって良いほど出てきます。
彼は演劇に関わっていたということもあり、1923年に『アトラクションのモンタージュ』という演劇技法に関する論文で「モンタージュ」という言葉を使い始めます。演劇でも、ただ時間軸ににしたがって演じていくよりも、印象的な場面を入れ込むことで劇的な効果があるわけですが、映画フィルムならば文字通りそれを切り貼りでできるようになりました。ノンリニア編集ができる現在からすれば十分大変ですが、役者や舞台を入れ替えながらやることを考えたら、フィルムによる切り貼りは、はるかにモンタージュ/編集の自由度と可能性を体感できるメディアだったはずです。
だいたいここで『戦艦ポチョムキン』のオデッサ広場の階段の場面がでてくるものですが、別の映画でモンタージュの説明をします。クリント・イーストウッド監督の『ヒア・アフター』(2010年)です。先に伝えておきます。1分にも満たないものですが津波の場面なので、もし今そういうものを見ると具合が悪くなりそうな方がいたら、見なくてもかまいません。僕はこの映画を3月9日の夜に見ていて、そして11日に大地震に遭いました。ちなみに、地震の前に思ったこの場面への感想としては、あのイーストウッドが大手のハリウッド映画みたいなVFXを使ったりもするんだなあ、という呑気なものでした。
(『ヒア・アフター』冒頭の津波の部分)
これは、今回の地震があったからというだけではなく、モンタージュの基本的な、古典的とも言えるものなのでとりあげました。つまり、音を消して見てもよくわかる。モンタージュとはまさしく映像と映像のつなぎによるものですから。エイゼンシュテインが発表してから現在に至るまで、このようにモンタージュ理論というのは実作で繰り返し使われている、天才的な発明です。100年近くたっても使える理論。
——映像と音の同期と非同期
しかし、天才にも失敗はあるという例にふれておきましょう。エイゼンシュテインが書いた「映画における第四次元」(1929年)という論文です。これはモンタージュについて音楽理論を援用して説明しようとしたもので、その内容は、
・オーソドックスなモンタージュ=ドミンナント(支配的な調性)モンタージュ。個々のショットをそれぞれの主な特徴によって連結するもの。
・オーバートーン(倍音)によるモンタージュ。響き、刺激の積み重ね。
・視覚的なものを音楽的にとらえること。視覚と音楽をひとつのものとして理解しようとする。
といったことが書かれています。しかし、どうもよくわからない。映像と音楽、どちらも時間が関係する表現です。映像は空間的なことだけでも説明はできるわけですが、モンタージュによって時間の流れを強く意識せざるを得なくなった、それについて音楽理論を使えばうまく説明できる、時間=第四の次元に到達するのではないかという思惑だったのかもしれませんが、 この後、映像と音楽の統合理論は語られないまま彼は亡くなってしまいます。
うまくいかなかったのも仕方がないことだと思います。エイゼンシュテインがこの論文を発表したのは1920年代末。商業的な映画に音がつくのは1927年に『ジャズシンガー』です。映像にそもそも音は同時につかない、もしくは、つきはじめたばかりなのです。今年度宮城大学での講義に冨永昌敬監督を呼んだとき彼が話してくれたように、私たちは映像と音が同時にとられるのが当たり前だと思っていますが、かつては、映像と音は別のものでありました。エイゼンシュテインの頭の中では映像と音を自在に組み合わせて編集することを夢想していたのかもしれませんが、それを技術的には体現できていなかった。
映像と音に関するエイゼンシュテインの逸話をもうひとつ。彼はウォルト・ディズニーのアニメーションを見ていたく感激したという話があります。このことは映像と音に関する彼の関心を非常によく示していると思うので、試しに私たちも見てみましょう。
(1930年代のミッキーマウスのアニメーション)
「ミッキーマウシング」という、映像の編集技法としてはやや悪い意味で使う言葉があります。映像のなかの動作や場面展開と音やリズムが完全に一致している。子どもがわかる、というよりも、子どもでもわかる。もちろん大人でもこの感覚はわかると思います。子どもっぽいとは思っていても気持ちは高揚する。我々は映像と音のシンクロに対する強い欲求、生理的な感覚がどうもあるらしい。だから、一般的には映像と音は合っているのが大半です。ただ、今日集まっているみなさんは、ミッキーマウシングが一番良いと思っていたらこんな話を聞きに来ないと思うので、21世紀も迎えると行き着くところまで行ってしまうという例を紹介します。
(『NIGHTLESS』田村友一郞)
これは、文化庁メディア芸術祭2010年でも受賞した田村友一郞さんの『NIGHTLESS』という作品です。Googleストリートビューの映像をつないだもので、音は、田村さんが架空の人物としてナレーションを入れ、後半はyoutubeなどネット上の音をつないでつけたものです。とくに無線の声などのところになると、どことなくミステリの感じが漂う。でも、映っている映像はストリートビューの映像なので本当はどこもミステリアスではない。にもかかわらず、何でもない場面が何事かのように思えてきます。
この作品に僕が興味を持ったのは、作品はもちろんなのですが、この受賞理由や批評が「ストリートビューを使った、今日的な映像表現である」といったものであることです。実は僕はあまりそう思わなかった。この作品のポイントは、映像などどうでもよく、語られる物語さえつながっていれば、話し手の声が違っていようが、意味のない映像の羅列だろうが、鑑賞者はそこに世界を見いだせるという事実を提示したという点です。そのことを指摘する人があまりにもいないので、かえって少し奇妙だと思っていました。どうして新しい技術を反映したことだけに着目するのだろうと。
結局のところ、映画ないし映像理論というのは、エイゼンシュテインの発明、あるいは呪縛によって、いつも撮影がどうとか編集がどうとかを気にして話をしているのですが、現在、映像と音を常にセットで見ている私たちとしては、両方を同時に体験することが映像体験の肝なのだと思います。むしろ、感情への影響としては音のほうが重要で、かつて「音楽は映画の貞淑な妻」という言葉がありますが、音は全然貞淑な妻などではない、むしろ恐妻である、いや、妻というのは大抵恐妻なのだ、とここに妻がいないので言っておきます。
もとい、批評家や理論家の言うことに引っ張られて、映像を見るときに映像のことだけを考えてしまうけれども、日ごろ映画館で映画を見るときのおもしろさは音楽や音響に強く左右されているという乖離をどうとらえたら良いのかといことを明日への課題として挙げておきます。
——震災をめぐる映像への違和感
ここまで話をしたところで、もうひとつ映像を見てもらいます。ひとつは、 高野裕之さんという、土木会社をお持ちでこの震災後瓦礫撤去の仕事をしつつ現場で撮影した映像です。彼は学生時代から映画もとっていて編集も自分でしています。
(『どうか記憶よ離れないで』高野裕之)
これをふまえて、冒頭に紹介した『ヒア・アフター』の津波のあとの場面、主人公が助かって、パートナーと再会する場面を見てみましょう。
(『ヒア・アフター』)
ふたつを見比べてみなさんいろいろ思うところはあると思うのですが、まず僕の感想を話してしまうと、高野さんの映像は風の音だけが強く聞こえていて、それはあの場所に実際に立ったときの感覚に非常に近い。一方、イーストウッドは、あえて言えば、あまりにもベタな音楽がついている。場面を見てもらえばわかる通り、津波にのまれて助かって再会するという場面ですから、まったく的確な音楽なんですが、高野さんの映像を見た後だと、とても違和感があります。もしかすると、これが、この一年、とくに全国区のテレビ放送で流されるニューズやドキュメンタリーを見るときに、被災当事者として私たちが感じる違和感と近いのではないかと思います。試しに、『ヒア・アフター』のこの場面も音を消して見てみると、一般的な物語上でこの光景に対して抱くべき感情と、この光景に対する今の私たちが想像する音がいかにずれているかが感じられるはずです。この感覚を持ったまま、明晩の対話を迎えたいと思います。
蛇足ですが、どうしてモンタージュによって別の意味が立ち上がってくるのか、実は明確な説明はまだありません。実感としてそうだ、というだけです。私たちは後天的にそれを学習するのか、先天的にモンタージュを理解する可能性を持っているのか、それはまだ議論の余地があると思います。 どうして私たちは別々のショットをつなぎ合わせたものに何か意味を見いだせるのか。私たちの頭のどこで「文脈/持続的な時間/近い未来」を予測するのか。これだけ映像がさまざまな国、文化圏で見られるようになると、いわゆる今日のハリウッド映画のような、全員が必ずわかるというレベルまで画面作りや編集の技術を標準化するならともかく、普段見慣れている映像は、文化圏によって違うし、まず制作者の感覚がそれぞれローカルなものだと思います。こんなにみんながモンタージュ/編集のことに言及しているのに、明確な答えを出しているものを少なくとも僕はあまり見たことがありません。 そのあたりはこのあとの茅原さんの話が鍵になるかと思います。
(2012年2月23日 Bookcafe 火星の庭にて)